シェアリングエコノミーの過渡期への突入

日本におけるシェアリングエコノミーの台頭

僕がはじめてシェアリングエコノミーという概念を知ったのは、メタップス佐藤さんの「ロボットと所得格差と共有経済(シェアリングエコノミー)」というエントリーだったと記憶しています。

このエントリーが書かれたのが2014年6月。
日本のシェアリングエコノミーを代表するサービスとなったメルカリのテレビCMがはじまったのが、2014年5月であったことを考えると、この頃から日本においても本格的にシェアリングエコノミーが世の中に浸透し始めたように思われます。

これからの日本に、これ以上生産年齢人口が増えるような見込みは今のところありません。
人口が増やせない中で、一人あたりの生産性を上げていくことは今後継続的に社会が発展していくために必要な課題であり、日本だけでなくこうした課題を抱えている国々は多く存在します。
そうした国々にとって、有限である資源をより“効率的”に分配するシェアリングエコノミーの思想の浸透の重要性は、ますます増していくばかりでしょう。

日本においては、こうした背景もあってか、シェアリングエコノミーは日本での登場から約3年の月日が経つと共に、今ではアベノミクスの第三の矢として経済政策の中核としての役割を期待されるだけの存在ともなりました。

そもそもシェアという概念は、“効率化”の手段として、はるか昔から存在しました。
現代で私たちが当たり前のように使っている「電車」や「バス」といった移動手段も、ルーツをたどれば、同じ方向に移動する人たちが一定量いるのであれば、まとめて輸送してしまった方が効率がよいという発想のもと生まれたもので、一般人が個人で所有するには高価すぎる資源をシェアという概念を受け入れることで大衆化するため、公共財にしたものです。
同じような発想でできたもので、日本で広く普及しているものとして「銭湯」なども挙げられますし、このシェアという概念は日本人の国民性との親和性は高いと考えてよいでしょう。

「電車」や「バス」も古くから存在するシェアの概念

欧米におけるシェアリングエコノミーに対する失望

しかし、テクノロジーの変遷に関してガラパゴスと比喩されがちな日本の外に向けてみると、シェアリングエコノミーの文化やサービスの浸透度で数年分は先を行く欧米では、先日シェアリングエコノミーの代表格ともされるUberの創業者であり長年CEOを務めてきたTravis Kalanickの解任が発表され、また同社のアカウントの削除を促す「#deleteuber」がトレンドとなるなど、大きな失望と共に、シェアリングエコノミーをリードする企業に対して社会が期待する役割に変革の波がやってきているタイミングであるとも感じます。

先程も述べたような社会的な背景もあり、これらの事象が直接的にシェアリングエコノミー市場の停滞を表すものではないとは思われますが、日々こうしたグローバル規模でのシェアリングエコノミーに対する捉え方の一つ一つの変化を眺めていると、シェアリングエコノミーがこの過渡期を乗り越えて継続的に成長していく上で、「理解しなければいけない状況」と「乗り越えなければいけない課題」が存在し、それらを避け続けたままさらなる成長を遂げることはできないのではないかと考えさせられます。

まずは、その危機感を上記のUberの例を用いながら説明していきます。

#deleteuber


Uberの一件から考察する社会からの期待と現実の乖離

爆発的な成長を期待され、それを成し遂げてきたプラットフォーマー

遊休資産をシェアするという意味で用いられるようになった“シェアリングエコノミー”という言葉は、シリコンバレーをはじめたとしたテクノロジーによる世の中の変革を試みる人々にとっては、非常に都合のよいものでした。

多額の投資資金の提供を受ける彼らは、世の中の変革と同時に経済的な成長を求めるので、経済的成長を遂げる最も効果的な手段が利便性の追求である以上、“効率化”の手段として、ITを用いた遊休資産の最適な再分配に目を向けることは必然でもありました。

そして事実、UberやAirbnbを筆頭に、数々のサービスがこの「遊休資産の再分配」という極めて資本主義的な課題に対して、一定の成功を収めています。それにより、シェアリングエコノミーに関してはこうした経済的側面ばかり取り上げられてきました

日本においても、政府や官公庁からシェアリングエコノミーが期待されていることの大部分は、こうしたシェアリングエコノミーの経済的側面でしょう。

“効率化”により成長を求め続けることの落とし穴

Uberの例に戻りますが、彼らは「水道のように当たり前の存在となるように」Uberという配車プラットフォームが世界中で利用できるようになることを目指してきました。

創業者であるTravis自身もよく語っていたように、EC領域におけるAmazonのような存在になることを志向してきましたし、「最も安く、最も効率的に移動できる信頼性」を大切にして、Amazonと同じように成長のための“効率化”を繰り返してきました。
その企業努力は凄まじく、Uberが驚くべき速度で成長を遂げたのも、この思想が組織の隅々まで浸透していたことの印だとも思います。

徹底した“効率化”はマーケットプレイスを成長させていき、ネットワーク上での優位性を築いていく上では非常に優れた戦略であり、Amazonはこれを追求することで世界を代表する企業の一社となりました。

しかし、この戦略には副作用のような性質があります。
それは、ネットワークの価値がプレイヤーの数が増えれば増えるほど大きくなっていくという構造であるがため、プラットフォームが成長するに連れ、プラットフォーム上のプレイヤーよりも、ネットワーク自体を保有するプラットフォームの影響力が大きくなっていくことです。

Amazonの場合も、同様の構造上の問題は抱えるものの、Uberの場合ほど大きく成長の妨げにはなり得ませんでした。
UberがAmazonと決定的に違ったのは、Amazonは経済合理性を元に意思決定を行うビジネスプレイヤーをユーザーとして抱える一方、Uberが抱えているのは、経済合理性だけでなく、感情や思想のようなものも織り交ぜて意思決定を行う個人であることに他なりません。

プラットフォームの価値はネットワークであり、それらはプラットフォーム上にいるユーザーに支えられています。
ユーザーが喜ぶから、プラットフォーム上に参加し続け、そのことがプラットフォームの価値を上げていくというポジティブなサイクルを創っていく必要があったのに対し、Uberが世の中の変革を最速で行うため、成長に対してストレートに投資し続けていったことは、皮肉なことに彼らが最も大切にすべきユーザーからの反発を買う落とし穴になっていたのです。

では、彼らが望むものとは、一体何だったのでしょう。

プラットフォームが創り上げる中央集権型と、個人が期待する分散型

ユーザーは自分たちが主役になりたかった

ユーザーが望んでいたものを理解するためには、経済的な視点から一度離れて、個人の視点からシェアリングエコノミーの成り立ちを考え直す必要があります。

シェアリングエコノミーが浸透した背景には、スマートフォンやクラウドコンピューティングの普及といったテクノロジーによる利便性の変化があります。
このことが、従来は企業しか行えなかった経済活動を、個人単位で行えることを可能にしました。個人がものを売ったり、個人が人を家に泊めたり。こうしたことは、今まで法人にしかできなかったり、個人では簡単に始めにくかったりするようなハードルが高い商業活動でした。

こうして個人の商業活動範囲の拡大したことは、今まで官僚主義・大企業主義といった中央集権型で権力を集中させることに反発的な思想を抱いていた人々に対して、中央ではなく「個人」が主役となれる時代が到来するのだという“夢”を見させるのに十分すぎるインパクトを及ぼしました。

つまり、今回の件に関しては、Uberが創っていったプラットフォームの影響力が依然としてユーザー自身の存在価値よりも大きく、プラットフォーム主導で成長を促進していったことが中央集権型社会であると受け止められ、従来からそうした中央集権型社会に反発精神の強い人々から反感を買う結果となりました。

もちろん、今回のUberの件に関してはこの考察だけですべての因果を結論付けるにはまだ早く、もっと複合的な視点をもって考える必要があるとは思いますが、あくまでこれをシェアリングエコノミーに対する社会からの期待と現実の乖離の一例として捉えるのであれば、シェアリングエコノミーは個人の台頭によってユーザーとプラットフォームの思惑が一致することで社会的トレンドになったにも関わらず、最終的にそれに協力してきたユーザー側の思想がおざなりにされているという状態であることが、ユーザーからの反発が強くなった要因の一つではあると考えられるでしょう。


これからのプラットフォームに求められるもの

そもそも、経済的な制約を取り払うなら、シェアをしたい人は少数派となるでしょう。
理想を言うなら、クルマは借りるのではなく自らで購入して所有したいし、中古ではなく新品が欲しいはずです。所有という概念には、ただ利用する権利を持つということの価値を上回る価値があります。もしそうではないのであれば、自動車産業も時計産業も今ほど大きくならなかったでしょう。ただ、経済的な余裕がないから、仕方ないから、シェアをするしかないのです。

つまり、シェアリングエコノミーは、スマートフォンやクラウドコンピューティングの普及といったテクノロジー・シフトで誕生した技術革新であること共に、それに関係するすべてのプレイヤー(プラットフォーム、ユーザー、そして関係する官庁や自治体など)を巻き込んだ思想の変化・価値観の変化から生じている社会的変革であるとも捉えられます。

また、このような視点からプラットフォームとして取りべき戦略を考え直すと、普遍的な経済成長を盲目的に信仰することが難しく、これらに利便性を感じざるを得ない状況である人々を巻き込んで社会変革を行っていくことがシェアリングエコノミーの成長を継続的なものとしていく上で大切であるとも考えられます。

米国では、このような価値観を持ち、経済的な成長以外にも精神的な豊かさが人生を豊かにすると考え、共感する人々を「ミレニアル世代(2000年代以降に成人を迎える世代)」と呼称します。

Uberの創業者Travis Kalanickが1976年生まれなのに対し、今回のUberの騒動の間に米国でのシェアを大きく伸ばしたLyftの創業者John Zimmerが1984年生まれであり、法規制との戦いは各地であるものの、今なおグローバルで成長を続けるAirbnbの創業者であるBrian Cheskyも1981生まれであることは、彼らがミレニアル世代の人々とプラットフォームを共創していくことを非常に手助けしたと考えられます。

これは決してミレニアル世代の経営者にしかシェアリングエコノミーにおける変革を起こせないことを示しているわけではないですが、少なくとも彼らの思想や価値観と相反する方針を貫き続けるプラットフォームに確固たる未来が約束されないことは、今後の流れとして確かなものとなりつつあるでしょう。

シェアリングエコノミーを代表する2人―Airbnbの創業者Brian Chesky(左)とUberの創業者Travis Kalanick(右)


ユーザーが主役となって、文化(プラットフォーム・カルチャー)を創るということ

従来、マーケットプレイス型のプラットフォームは価値のあるネットワークの提供により、効率化を図ることをコアバリューとしてきました。これが成長の肝であることは今でも変わりません。
一方で、個人が主役になることをユーザーから期待されているという背景を捉えると、彼らが求めているのはただただ効率化を追求し続けた先にある経済合理性だけではないでしょう

C2Cのフリマアプリであるメルカリに目を向けてみると、ユーザー同士でのやりとりが非常に活発です。実際に使ってみると、購買活動をするのにそれほどまでに執拗に連絡を取る必要があるのかというぐらい丁寧な方もいらっしゃいます。また、運営が予想もしていなかったような独自の文化をユーザー同士で創り上げ、それらを楽しんでいるように思います。

Uberの米国最大の競合であるLyftでは、フィストバンプ(グー同士でお互いの拳を突き合わせる仕草)での挨拶や後部座席ではなく隣に座って会話を楽しむことをLyftを利用するユーザーに推奨することで、ライダーとドライバーの交流を促進し、コミュニケーションのきっかけを創出しました。(現在は、立ち上げの時期ほど強く推奨はしていないようです。)

また、Airbnb Storyでも紹介されていますが、Airbnbは年に一度“Airbnb Open”という世界中のホストが一堂に会するイベントを行ったり、世界中の旅人が仲間を募れるようなミートアップを頻繁に開催したりしています。
仲間と交流する機会を増やすことで、ホスピタリティのアイデアを学び合ったり、日頃感じていることを共感し合う相手ができたりと、ただマッチングを行うこと以上の価値をプラットフォームがユーザーに対して提供してるのです。

ここでどのプラットフォームにも共通する大切なコンセプトは、「ユーザー自身が主役となって、文化(プラットフォーム・カルチャー)創りに参加・貢献している」という点だと考えます。

「◯◯様専用」や「プロフィールをお読みくださいといった文化」はユーザーがつくった

「好きなことで、生きていく」ために個人が求めるもの

シェアリングエコノミーにおける個人の台頭は、一昔前なら会社に所属することでしかできなかった商業を個人単位で行うことを可能にしました。
YouTubeがシェアリングエコノミーの文脈で紹介されることは稀ですが、古今のYouTuberの登場もテクノロジーシフトによる個人の台頭という文脈においては同じだと思います。行動する個人は「好きなことで、生きていく」が可能になり、“上司”という概念から開放されました。

ただ、“上司”から解放されることは、いいことばかりではありません
ミレニアル世代のイメージする上司像は、行きたくもない飲み会に誘ってきて、話は説教じみていてといったネガティブなイメージが強いかもしれませんが、その裏で自分ができない部分をこっそりとサポートしてくれたり、成長のためのフィードバックをくれたり、上手くいったときには褒めてくれたり、喝を入れてくれたりする貴重な存在でもあります。
個人で生きていくということはそういう存在がなくなることを意味していて、一言で言うと、孤独になりがちです。

だから、YouTuberはコメントを読んで喜んだり悲しんだりするし、メルカリではどんな人とどんな風にやりとりするのかにこだわるし、Airbnbで人のお家に泊まりにいったときには、現地のオススメのラーメン屋を聞いてみて、ちょっとそのお店に食べにいこうかな、となるわけです。
田舎感とでも言うのでしょうか

シェアリングエコノミーには、経済合理性だけではなく、精神的充足感が期待されているということです。
人々が、そのプラットフォームでの活動や交流、所属していることに対して、どれだけ生きがいだと感じてくれるかどうか、愛してくれるかどうか。そういった文化をプラットフォームの中で構築できるかどうか。
同じ領域で戦っていても、UberとLyftの文化に大きく差があるように、この文化はプラットフォーマーが意識して創っていかないと真に受け入れられるものにはなりません

C2Cの場合だけでなく、B2CやB2Bの場合は、ブランドと言っても差し支えないかもしれない。どうせならオシャレなカフェに行きたいように、経済的理由で所有はできないわけだけれど、かっこいいクルマやバイクに乗っていたい、そういうニーズを叶えられるかどうか

mobikeの自転車はCOOL!

マッチングしか行わないプラットフォームに、高い手数料を払う程の価値はなくなっていくのだと思います。
シェアリングエコノミーのプラットフォームは、以前にも増して文化的側面での価値提供まで求められるようになりつつあります。
経済合理性や利便性だけではない、もっと広い視点でどれだけ価値提供ができるか。
だから、これからのプラットフォームがベンチマークすべきは、Amazonのようなインターネット企業ではなく、ディズニーやスターバックスのようなブランドだったり、ホスピタリティだったりで差別化を図ってきたような企業なのだと思います。
(もちろん、その実現の裏には極めて高度なオペレーション・エクセレンスが存在します。)

会社員が企業に求めていることが、給与だけではないように、シェアリングエコノミーにおけるプラットフォーマーも、経済的合理性以外の人々のニーズに応える必要がある時代になってきているのです。
そして、ユーザーを主役として称えながら、共にプラットフォームを創り上げていくことが求められていくのではないでしょうか。


シェアリングエコノミーのこれから

シェアリングエコノミーは、変革のときを迎えているように思います。
個人が主役となることを以前よりも強く主張するようになりました。
それは、プラットフォーマーがそのことを理解して共創してくれるようになるまで続いていくことでしょう。

最近もVALUタイムバンクが大きく話題となったように、これから個人を飛躍させるサービスはもっともっと増えていくでしょう。

僕はシェアリングエコノミーの潮流が、こうして経済成長から文化的側面に流れていくことは必然だと見ています。
個人が主役となる世界で、個人がもっと尊重され、尊厳を保ちながら、人々と繋がり、助け合い、感謝され、幸せに生きていけるような社会になるのを願うばかりです。




結びにかえて

ここからは僕個人の話になりますが、正直、経済合理性だけを考慮するなら、僕はスタートアップという生き方は選べませんでした
それでも、今こうしてプラットフォームを創る側に回っているのは、それを創っていく過程で僕が得られる文化的な側面に感謝しているからに他なりません。

1993年生まれなので、ミレニアル世代と言いますか、日本風に言うのであればど真ん中なゆとり世代なのですが、やはり経済が成長していかないことの危機感が強いことは、同世代の友人と話していても、経産省の若手が作成した「立ちすくむ国家」というタイトルのペーパーがソーシャル上でバズったことからも、僕個人だけの感覚ではないように思います。

だからこそ、人々の生産性を劇的に上げるか、もしくは人々の精神的な充足感を増やすか、どちらかに尽力することがすごく価値のあることであると感じています。

  • 効率化の権化であるAIやアルゴリズム分野
  • VRやARといったエンターテイメントや体験をリードしていく分野
  • 文化を発信していき、人々の精神的充足感を創っていくシェアリングエコノミー分野

こうした分野に、若手である僕らが挑戦していくことは日本の将来のために必要なことだなと考えて、がむしゃらに進んできましたし、やりがいも感じています。
お陰様で多くの方からご支援・応援していただけており、当初想像していたよりも何段階も大きな挑戦ができています。

一部、論理的飛躍があるのは自分でも重々承知していますが、ここで主張したい個人が主役となっていくという社会的変化自体は今後も続いていくものだと考えて、このエントリーを公開いたしました。
今回、Uberを槍玉のように上げてしまいましたが、シェアリングエコノミーの一時代を築きイノベーションを起こしたという視点で、創業者のTravis Kalanickは偉大な起業家だと思っておりますし、文化的側面に関しても今まさに改革を行っている最中だとも存じ上げていますため、全面的に否定したいわけではなく、特に特定の組織や個人を対象として批判したい意図はございません。

このエントリーの執筆のきっかけは、ふとしたときに「ある時から、プラットフォームに求められる文化的要素が強くなったな」と感じて、その感覚の根源を探るべく自問をはじめたことです。
また、日本においてもシェアリングエコノミーの世の中に対して与える影響が大きくなっていく上で、それを担っていくつもりである一個人として、この変化が人々を幸せにする方向に、適切に進んでいくことを願って、一つのものの捉え方として書きましたので、建設的な批判がございましたら、正面から受け入れて成長の糧とさせていただきたい次第でございます。

長い文章にお付き合いいただいて、ありがとうございました。


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